心に響いた言葉(人の目が気になった時)

たとえば誰かがあなたを侮辱します。

あなたが最も嫌な言い方で、しかも人前であなたを辱めました。

自動的に何らかの感情が湧いてきます。

その後の対応は、人生での経験数と学びによって、人それぞれでしょう。

言い返す人、無視する人、平静を装う人、感情を爆発させる人・・・

対応は様々でも「私は侮辱された」という経験は同じです。

さてそれでは、自覚とはなんでしょう。

それは自分の周囲に怒りが渦巻いたものの、自分自身は一切影響を受けずに、そのプロセスを見守っているということです。

自分の周辺には侮辱に対する反応感情が渦巻いています。

まるで煙幕に覆われたかのようです。

でもあなたはその感情と同化せずに、ただ見守っています。

侮辱は外側からやってきて、感情も外側に漂っています。

その距離観が自覚の大きさです。

もし不断の自覚を持つことができれば、あらゆる出来事は周辺にとどまります。

周辺の出来事は時間の中に存在しますが、自覚はいつも「いまここ」にあります。

このことが徹底できたとき、あなたは知ることになります。

それは・・・

「いままでに何一つ起きなかったし、これからも何も起きない」ということを。

ただ自分の周囲に映画が上映され、その映画と同化して一喜一憂していただけだったことを。

映画の中で、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、いろんなゴールを目指して走り回っていたけれど、本当はどこにも出かけずに、ずっと座席にいたことを。

映画との同化が完全に止むことが解脱であり、解脱をしたあとに残るもの、それが「いまここ」です。

映画は時間の中に存在し、一本の映画が終わってもまた同じような映画が、登場人物やシチュエーションを変えてくり返し上映されることでしょう。

その連続映画を輪廻といいます。

輪廻は時間の中に存在し、解脱は「いまここ」にあります。

起きている出来事や、内なる反応と同化せずに、ただ見守ることを通して自分を忘れずにいること、それが「いまここ」に在り続けるレッスンです。

人生のあらゆる機会を、このレッスンに使うことができます。