平穏な毎日について

今日は早めに仕事から帰って、郵便局に寄ったのだが、郵便局の裏手から入る直前のところで、6歳ぐらいの男の子が自転車に乗っていきなり道路に飛び出してきた。
かなりのスピードで、思いっきり道路を横切った。
私がもう少しスピードを出していたら、確実に轢いていただろう。
その子供は、何事もなかったようにUターンして走り去った。
あまりに突然の出来事に、クラクションを鳴らすことも、子供をしかることもできずに、子供と目があったままそのまま見送った。
どんなに子供の方が悪かろうが、少しでもこちらが動いていたら、罪に問われたことだろう。罪に問われなくても、とても嫌な思いを味わうだろう。
子供の一族郎党に恨まれただろう。一生その思いを引きずりながら生きなければならなくなってしまっただろう。
自分にはどうしようもないことだ。
ほんの数秒のタイミングで、人生が変わってしまう。
何事もなく一日を過ごすというのは、とてつもなく幸せなことだと思い出させてもらった。
うちの娘が逆の立場にだってなり得る。
事故も自分が引き寄せるものなのだろうか。

昨日、家族で公園へ遊びに行ったのだが、芝生のところにロープがはってあったところに、娘が気づかずに突っ込んでしまい、反動で思いっきり転んだ。
黄色いロープで、芝生に色が溶け込んで見えづらくなっていたのだが、娘はコンクリートに頭をぶつけてしまった。
しばらくしたら、頭が痛いと言い出したので、救急病院に連れて行った。
娘は泣くばかりで診察にならなかったので、自宅で様子を見ることになった。
今日は異常がなかったのでホッとしたのだが、娘が無事に元気に生きているということのありがたさを再確認した。
もしかして、最近感謝が足りないなと思っていて、どうすれば感謝し続けられるんだろうと疑問に思っていたことへの答えがこれらの出来事だったのだろうか。
他人のせいにしようと思えばいくらでもできるのだが、どうもそうは思えない。
いまはみんなが元気に過ごさせてもらっているありがたさを感じているが、ずっと感謝し続けるには、たまに不幸と呼ばれる経験をする必要があるのだろうか。
そんな必要はない気がする。
「目覚め」と呼ばれる視点から見ることができれば、まったく違う次元で見えてくるのだろうか。
今はただ、自分の無力さと、無事だったありがたさを感じていよう。